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面白く そして悲しいパテント世界

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2005年4月1日 (株)アゴスタ 篠原泰正

はじめに
 
 マネー資本主義とプロダクション資本主義

ソビエト連邦の社会主義経済システムが崩壊し、中国も実質はすでに社会主義経済を捨てた現在、世界は「資本主義」一色になっている。

しかし、一口に「資本主義」といっても、その中に二つの異なる資本主義があると、私は考察している。一つは、モノづくりを基盤にしての資本主義経済であり、もう一つは、お金(銭)を基盤にしてのそれである。このような区分けは、一般的に通用したものではないので、とりあえず私の勝手で、前者を「製品生産資本主義 Production Capitalism」、後者を「銭資本主義 Money Capitalism」と呼ぶことにする。

もちろん、資本主義であるからには、すべての根底にお金(銭)はあるのだが、それが「手段とその結果」の色合いの濃いものか、それが「目的イコール結果」であるかの違いが両者にはある。

1853年、黒船の出現で日本の眼の前に突きつけられた西欧の経済システムは、産業革命からまだあまり日も経つていない、機械工業資本主義、つまりプロダクション資本主義であった。幸いなことに、もともと、モノづくりに優れた才能と情熱をもっていた日本人には、このシステムに追随することは、それほど難しいことではなかった。もちろん、未成熟の段階で太平洋戦争などを始めたものだから、当時プロダクションでは世界一の米国に、そのプロダクションで「こてんぱ」にのされるという、喜劇的な悲劇も演じた。

1930年当時から1970年代いっぱいぐらいまで、米国は、その質と量において、圧倒的な「プロダクション資本主義」のチャンピオンであったことは、誰も否定できないだろう。そのナンバーワンの位置が危うくなったとき、もう一度王座を奪い返す方向は取らずに、銭それ自体の流動で銭を稼ごう、プロダクションではなく、知恵そのもので銭を稼ごうという方向に、すなわち「マネー資本主義」の道を米国が国策として採用したところに、現在、米国内のみならず、世界中での「軋み(きしみ)」の主たる根源がある。

その軋みの一つを「パテント」という世界で眺めると、明治維新以来、得意の「プロダクション資本主義」一本槍で来ている日本において理解されているパテントの姿と、「マネー資本主義」に転じた米国でのパテントとは、同じ「パテント」という概念と言葉を用いながら、大きなズレが存在する。

このあと見ていくように、1985年までの米国は、すなわち「プロダクション資本主義」の路線をまだ維持していた時代は、パテントをことさら重視はしていなかった。それどころか、プロダクション、すなわち製品の自由な競争という立場の重視からは、パテントはそれを阻害するという見方も有力であった。したがって、パテント重視(プロパテント)は、単なる政策転換ではなく、その根っこのところでの「何で稼ぐか」についての戦略転換の上での、実施策の一つとみなすべきであろう。

「プロダクション資本主義」の路線を変更していない日本が、米国にならって、同じ概念で「プロパテント」路線に変更することは、基本的に成り立たないことになる。もし、右にならえで米国と同じ「プロパテント」政策を採用するなら、日本も米国と同じく、モノづくりを断念して「マネー資本主義」に国の戦略を転換することになる。しかし、モノづくりを放棄すれば、それは日本の自殺となることは、まともな人ならば考えなくともわかる。

したがって、近年公表された、政府の「知財立国」戦略は、日本がモノづくりで食っていることの体験も実感もなく、そのモノづくりで生きることと、米国流プロパテントは両立し得ないという矛盾を深く考えることなく、無理やりこしらえた、実業に鈍い官僚の出来の悪い作文に過ぎない。したがって、モノづくりに生きる日本企業が、そして日本が、対米国、対世界のパテントで直面している基本的な問題を認識することなく、したがって何らかの対策に言及することもないタイトルだけの「戦略書」となっている。

「プロダクション資本主義」は、まじめにこつこつと良い製品を作り出すマインドが、国民の「常識」でなければ、続けることは出来ない。経営者や社員にその「常識」がなければ、メーカーとして存続は出来なくなる。一方、「マネー資本主義」は、基本的に、銭と知恵をネタにうまく立ち回ることができなければ成り立たない。両者は、マインドにおいて極めて異質で、その違いは人間性に根ざしたものであるから、一人の人間の中で両立するものではなく、また、企業や国の中で方針や戦略として両立できるものではない。

「マネー資本主義」の下にある米国パテントと、「プロダクション資本主義」の下にある日本パテントのづれを認識し、そこから生じる問題に、どのように対応するべきかを探るために、以下を記す。

 
 1985年の画期

いまから20年前の1985年は、USA(以下米国という)にとって画期の年であったと言えるだろう。もちろん、この年を境にものごとがガラリと変わったわけではないが、この年に象徴的な二つのレポートが提出されている。一つは、議会委員会の議長をつとめたHP(ヒューレット・パッカード)社のCEOの名を取って、通称「ヤングレポート」と称される、レーガン(Reagan)大統領への答申書であり、これにもとづいて米国はプロパテント戦略に転換したといわれている。もうひとつは、MIT(マサチュ-セッツ工科大学)が世に問うた「メイドインアメリカMade in America」という分厚い報告書である。

この二つの報告が分析した当時の米国の状況は、「モノづくり競争に敗れた」ということであり、その分析から導きだされての提案は、ヤングレポートにおいては、知識と技術の重視と、それに基づいて、一つは知的財産権(Intellectual Property Right)の強化であった。MITのそれは、製造業の大幅な改善であった。MITの報告がその後どのように扱われたのか私は知らないが、その後の米国の動向で見る限り、この提案は「国策」としては採用されなかった。つまり、「モノづくり」でもう一度世界のトップの座を奪い返そうという方針は、米国において、永久に葬り去られたことになる。

その大きな流れ、国の戦略や政策転換を先頭にして、人々のマインドまで変えて行った流れは、「楽して儲ける、知恵だけで稼ぐ」というものであった。汗水流してせっせとモノづくりに邁進して日々の糧を得る、なんてことはやめて、楽に、スマートに、クールに銭を稼ごうということである。すなわち、「マネー資本主義」への国を挙げての戦略転換であった。この流れは、1989年、ベルリンの壁の崩壊に象徴されるソビエト連邦の崩壊、経済の方式で言えば社会主義経済の敗退で加速された。すなわち、アメリカ式資本主義の明らかな勝利であり、アメリカ式こそ世界ナンバーワンなのだという自信に裏打ちされての、いわゆる市場経済の名の下に、世界がひれふすことになった。これが言われているところの、米国主導のグローバル化(globalization)である。

しかしながら、そのアメリカ式の基調は、すでに「プロダクション資本主義」が放棄され、「楽して儲ける」という「マネー資本主義」が据え付けられていたわけだから、アメリカ式イコールグローバル化の下に、この流れは世界に直接的に影響を及ぼすものとなった。かつての、ピューリタン主義に裏打ちされた「質素」と「勤勉」を土台にしていたアメリカ式プロダクション資本主義は、既に何処かに消え去っており、楽して儲けるという「バブル」な、人間性において品性が低い考え方が、グロバリゼーションの装いの下に、米国内だけでなく世界に押し付けられ、浸透していくことになった。

彼らが考え出した「楽して儲ける」方式とは、金持ち層にとって取り立てて目新しいものではなく、もともとなんの興味も関心もなかった汚れ仕事の「モノ作り」なんかは捨てて、自分たちの手馴れた世界で、すなわち銭を動かして銭を生むやり方を軸にするものであった。ただ、これまでとは違っていたのは、そのやり方を、もはや誰に遠慮することも無く、露骨に推進していったところにある。それ以上に、先に述べた自信のもとに、この方式こそ優れているのであり、それを理解しない者は、馬鹿だ、チョンだ、時代遅れだと世界に押し付けたところにある。世界で唯一のスーパーパワーとなった事を後ろ盾にして、また、ただでさえ押し付けがましいアングロ流でまくしたてられると、世界の中で抵抗できる者は誰も居なかった。

ここでいう「彼ら」とは誰を指すのか。もちろんアメリカ国民全体を指しているわけではなく、桁違いの資金力を持ち、それを背景に議会と政府を握っている、国民全体から見ればほんの一握りの集団のことで、彼らは「マネー絶対主義 Money Absolutism」とでも名づけるべき「マネー」の圧倒的な力を信奉している人々であり、その信奉に同調する、あるいはそのお裾分けにあやかろうと周りに群がっている人々を含めている。

先に、米国はモノづくりに負けたと記したが、実際は、日本などに負けたというより、自分でズッコケタとみなすべきであろう。すでに60年代から、デトロイトのビッグスリーでは、モノづくりのキーマンよりもビジネススクール上がりの財務屋が実権を握るようになっていた。自動車をつくるのが大好きな人間は、隅っこに追いやられることになり、それがビッグスリーの凋落のはじまりであったことは、よく知られている。同時に、そこで見られたことは、汗して働く労働者への蔑視であり、資本家からみれば労働者は、自分たちの儲けのための、使い捨ての兵士に過ぎない。このようなマインドを持つ人が、会社の資本と経営権を握っていれば、そこから出てくる製品が価格においても品質においても市場の競争に勝てないものになってしまうだろうことは、容易に理解できる。

ピューリタン主義の伝統を維持している人々から見れば、彼らは信じられないような考え方と行動をとる人々であるが、残念ながら、そのような古きアメリカの伝統を持つ「まっとうな」人々は既に国を動かす力は持っていない。

政治学や経済学の学者先生の論文や書物、あるいは新聞記事では、国としての米国と、国民としての米国民の存在を同一視して、一言で、「米国は云々。。。」と記述されていることが多いが、これは極めて杜撰な、あるいはまやかしが含まれた、誤解を招きやすい表現といえる。その時の政権が国民の大多数の賛成を得て、またその政権が真摯に国民のための政策を遂行している場合は、国家としての米国と国民としての米国を同じ扱いにして、「米国ではこのように動いている、云々」と記述しても、大きな誤りは生まれないだろうが、このような「幸せな」時代はまずめったにありえない。どこの国においてもそうだが、時の政権の政策に賛同していない国民の数は、一般的にみて半数は存在し、また、政権が国民全体のことを考えることよりも、自分たち、すなわち、国民全体の人口からみるとほんの一握りの、政権を握っている人々とそれを支えている人々の利益を最優先して国策が決定され運営される。そのような状況の方が当たり前なのが現実である。

従って、私がここで、「彼らは」とことわって述べているのは、これらの動きが米国民大多数の同意しているものではなく、それどころか、そのような動向を憂慮しているまっとうな人々が数多く存在することを忘れてはならない、ということを意識しているが故である。

この「マネー絶対主義者」は経済学会(例えばシカゴ大学経済学派)の一部の強力な後ろ盾も持っており、当然マスメディアも支配しているから、米国国民の間に、彼らが主導する風潮は容易に広がり、また、他国にも多くの同調者を得ることも容易であった。何しろ、彼らが信奉している通り、「マネー」の力は絶対であるから、「俺も一攫千金を」と思う人が増殖しても何の不思議もない。

この考えとそれを運営するシステムの広がりの下に、国民の良識を代表するべき中産階級の急速な没落が続き、それと共に米国民の心の荒廃と社会不安が広がっていることについては、ここでの主題から離れるので、言及を控える。

 
 楽して儲ける様々な手口

彼らが米国国内のみならず世界に示した「楽して儲ける」方法とは、以下のようなものがあった:

伝統的な金貸し(利子配当);健全な資本投下による利子や配当の受け取りならまだしも、世界銀行(World Bank)やIMF(International Monetary Fund国際通貨基金)といった国際機構を通して、開発途上国に資金を貸付け、高金利で回収するといった、貧乏人からもむしり取るやりかたは、それを見聞きした人の心を暗くする出来事である。
世界中に儲け口を探し、資本を投下して利子や配当の収入を得るために、米国政府の手を通して世界に圧力をかけ続けているのは、「解放された市場」という名目の下での「資本の自由化」である。海外からの資本投資を制限している国は、未開の、時代遅れの国として米国から非難されることとなった。金融の自由化の名の下に、他国の金融業を手に入れることも、資本の自由化、つまり自分達の銭を世界のどこでも自由に暴れまわすことができる手段として必要であった。

弱みに付け込み底値買い(利ざや稼ぎ);バブルの崩壊後の資産を、底値で買取った後に何らかの手で価値をつりあげ、高値で売り払うといった、相手の弱みに付け込んでのいわゆる「禿げ鷹ファンド」のやりかたが典型であろう。

株価のつりあげ(利ざや稼ぎ);株価をつりあげて、売買の利ざやを稼ぐ伝統的手法。バブルとは、経済活動の加熱と証券市場の狂騰が掛け合わされたものであり、株価の高騰はまさにバブルの象徴である。吹いて吹いて吹きまくり、一般投資家を巻き込んで株価を吊り上げ、うまく売り抜けば、まさに一攫千金であった。

M&A(利ざや稼ぎ);禿げ鷹ファンドもその一つといえるだろうが、これはバブル中に横行した、企業を買い取り、資産をばらして売り払ってしまうという、やくざそのもの活動である。彼らにとって、そこで働く従業員の存在などは考慮する対象にもならず、企業は売買して儲ける一つの物体に過ぎない。

かつては、野球のメジャーリーグ球団は、野球が好きでたまらないといった金持ちがオーナーであったと聞いている。今はそのようなオーナーは少なくなり、球団が儲かるかどうかしか関心のない金持ちの持ち物となっている。自動車が好きでたまらないという人が自動車会社を買収するなら、まだ話は納得できるが、残念ながら通常は、「良い車」を世にだすなんて情熱とは無縁の人が、儲かるかどうかだけで判断して買収することになる。そのような資本家の下でその自動車会社がどのようになっていくかは、容易に想像できるところでる。

低金利預金・高金利貸付;低い利子で預金を集め、高い利子で貸し付けるという銀行の「通常業務」。先に述べた世界銀行のやりかたもこれに同じ。

為替を変動させる(利ざや稼ぎ);通貨そのものを動かしてその利ざやを稼ぐのも、楽して儲けるための常套の手段である。変動為替相場は、規制の緩和、市場の自由化の名の下に遂行され今日誰も疑わないシステムとなっているが、製造業にとってはこのシステムは極めて嫌なあほらしい存在である。営々とコストダウンに励んでいても、為替の変動だけで利益が吹き飛んだり、あぶくの利益がでたりと振り回されることになる。為替の変動は、「通貨」を商品として売買する人々のもうけ場として必要なシステムなのだ。

ドルを弱くして国債を返済する;例えば米国国債を1ドル180円の時に日本の企業、例えば生命保険会社に買ってもらう。米国はその金で飲み食いする。10年後、20年後の返済のときには、ドルを弱くして、1ドル100円の水準に持っていく。いくら高い利子をつけて返済するにしても、その為替差額で充分なお釣が来る勘定になる。笑いが止まらないだろう。

IPO(創業者に相乗り利益);株式市場に上場して、保有株を高値で売り払う。苦労して起業してその見返りの報酬なら話は分かるが、成長途上の会社に投資して、上場させて、がっぽり稼ぐという、いわゆるベンチャーキャピタルの手口。(IPO: Initial Public Offer)

発明のローヤルティ徴収;パテントを取得しておいて、他者がその発明関連分野で事業を展開しているところに権利主張し、ライセンスを与えローヤルティを取る。自分ではその発明に基づいて製品開発し、販売するなどの汗水は流さない。「スマート」である。

賠償金稼ぎ;権利主張を裁判所に持ち込んで、賠償金を巻き上げる。このとき、両サイドにつく弁護士にとってもこの「訴訟産業」は不可欠の稼ぎ場。

儲けた後の対策:税率を下げる
このように楽して稼いだお金を、税金にガッポリもって行かれてはたまらないので、当然このような収入(capital gain)に対する税率は国の政策として下げられることになる。勤労所得に対する税率よりも株の売買で稼いだ利益に対する税率の方が低いという現象は、まともな人々には大きな失望感や、やる気の喪失をもたらしていると想像できる。まじめにこつこつと働いている人よりも、金融市場で利口に立ち回り大金を稼ぐ人の方が「ヒーロー」としてもてはやされるような社会が健全であるわけがない。

土俵作り
知識産業(Knowledge Industry)、脱工業(Post Industry)化時代の喧伝も、この「楽して儲ける」方式の援護として必要であった。
*industryには、産業という意味と工業という意味の二つがある。
モノ作りに敗れた腹いせで、製造業は時代遅れ、と宣伝しまくった面が無いでもないが、本当の目的は、このように「情報、知識、知恵」に基づいて「楽にガッポリ稼ぐ」ことの正当性をアカデミックな装いで飾ることであった。これに駆り出された大学教授の姿も滑稽であるが、モノ作りで食うしかない日本で、この「理論」の太鼓持ちをした人の姿には悲しさが伴う。この「知識産業」の宣伝は、この後述べる、知的財産権重視の背後からの支援でもある。

経済学者の中には、社会科学というアカデミックな装いの下に、単に、金持ちの取り巻き、その太鼓持ちをつとめているだけの人がいるので、もっともらしいその「学説」なり「理論」に騙されないようにしなければならない。また、自分ではアカデミックなつもりで、意識せずに、したがって無報酬で、実際はマネー信者のお先棒を担いでいる滑稽な学者も多い。

 
 パテントのローヤルティで稼ぐ方法

パテントのローヤルティで稼ぐという米国の方針、すなわち政権を握っている人々とその同調者の方針は、このように、「楽して儲ける」流れの中のひとつであり、この方式が突出しているわけではないが、どのようにして稼いでいくかについては、国家の政策として様々手が打たれてきているのを眺めれば、彼らが大変に重視している方策であることがわかる。

 
1. なんでもパテント
 

1985年の時点で、あるいは1990年の時点で、米国の強いところと弱いところを考察すれば、モノ作り(ハードの製品)に負けたあと、残された強い分野は、コンピュータ・ソフトウエア、バイオ、そして情報システムを基盤にした各種の社会運営システム、ビジネスのシステムにあるということは、それほど深く考えなくともわかることであった。宇宙航空ももちろん強い分野であるが、これは国防の下に保護されている産業であり、またそれだけに、発明がパテントとして公開されるべきではないと判断されるものである。

ソフトウエアパテント

強い分野にパテントを与えて、将来のローヤルティ収入を期待しようとすることから、当然のことながら、コンピュータ・ソフトウエアにパテントが与えられるようにした。
英国を除く欧州からの強い反対や懸念を無視して強引に実現させた理由は、もちろん単に銭稼ぎだけでなく、世界を経営する仕組み(システム)を動かすソフトウエアの覇権を握っておくという戦略に基づいている。
ソフトウエアにまったく弱い日本が、真っ先に米国に従ったのはまさに「売国奴」的方針といえるだろう。今日、国や企業を動かす仕組み(システム)は、IT(Information Technology情報技術)無しでは行えない。そのシステムを動かすのはソフトウエアである。そのソフトウエアは圧倒的に米国が強い。そのパテントを国内で認めれば(日本に出願されて)国を動かす仕組みの原動力はすべて「米国製」ということになってしまう。米国に盲目的に追随したこの決定は、あまりにも知恵足らずであった。自国の強いところと弱いところの判断も持たず、机をたたいて英語でまくし立てられた(多分)からといって、ソフトウエアにパテントを認めるとは、情けない話である。

バイオ

また、バイオ分野でのパテント範囲も大幅に広げることにした。
これも単にここで話題にしている銭稼ぎだけでなく、米国の世界制覇の一環戦略であるが、深く立ち入ることは控える。ただし、現状は、発明の名を借りて、生物学上の「発見」までパテントにしまくっているようなので、このままその動きを野放しにしておくと、近い将来、大変なことになるのではないかと、私は心配である。

ビジネス・メソッド

更には、システムに強いことを生かして、ビジネスのやり方にまでパテントを与えることにした。このことが明らかになったときに、米国は頭がおかしくなったのではないかと思った人もいるだろうが、ローヤルティが稼げるパテントをたくさん持つという戦略からは、極めて素直な動きであったことがわかる。もっとも、闇雲にビジネスのやり方すべてにパテントを与えることは、いかに何でも行き過ぎだということになって、範囲はいささか狭められることになった。
今後は、事業を行っていくと、いたるところでこのパテントに出くわすことになってしまうのではないかと危惧される。国やビジネスをシステム化してそれを合理的に運営していく能力に、アングロサクソン民族が長けていることは、この2世紀の間に実証済みのところであり、われわれ日本人が逆立ちしても及ばない分野であることは承知しておくべきであろう。

 
2. 知的財産権利(IPR)の重要性喧伝
 

工業化時代は終った。これからは知識産業の時代だ、との嘘っぱちの宣伝と表裏一体で、知的財産ということが重要なのだ、と宣伝しまくった。一見したところその考えには妥当なところが多いので、全体としては世界の受け入れるところとなった。なぜ宣伝しまくったかといえば、それは、世界中からローヤルティを徴収できるようにするためであった。ローヤルティを主張しようにも、相手がそのような仕組みを認めていなければ、徴収するのに大変な苦労をすることになり、また一つの私企業の手には負えないことになるので、宣伝に国が音頭を取ったわけだ。

外国人著作者の権利を、米国は1891年までは認めていなかった事実を思い起こせば、米国の主張は決して美しい「人類の理念」のためではなく、自分達の都合で唱えるものであることが理解されるだろう。もっとも、国家が主張する政策は、どこの国であれ自分達の国益のため、自分達のためであり、それを飾るために「人類のため」を持ち出すに過ぎない、ということからみれば、米国政府の動きになにも驚くことはないわけだ。

3. WTOの場を活用
 

実際に各国の企業からローヤルティを徴収しようとすれば、国家間の条約、あるいは世界統一の条約が必要になる。パテントに関する世界機構にはWIPO(World Intellectual Property Organization)があるが、これは欧州主導の国連の機構であり、また銭を徴収するにはふさわしくない場であるために、ウルグアイラウンドを発展させたWTO(World Trade Organization 1995年発足)の場を活用することにした。なかなかに天才的なアイデアと言える。ここにおいてトレード(*)に関連する局面においてのインテレクチュアル・プロパティに関する協約を定め(TRIPS trade-related aspects of intellectual property rights)、ついに、もっとも問題の中国までも参加させることに成功した。
*tradeという言葉は日本語では例えばWTOは「世界貿易機構」と訳されているように「貿易」と訳されているが、誤解を招く。モノやサービスなどの売買や移転を伴うあらゆる商業活動、という幅広い概念が含まれている。

もともと順法精神の強い日本にたいしては何の懸念もしておらず、米国の言うままになるとみなされているので、TRIPSのねらいは中国と欧州の考えと行動をたがに入れようということにある。モノをつくって大きく事業を展開している相手でないと、大きなローヤルティ額は入ってこないわけだから、世界の三大ものづくり地域、欧州、日本、中国が米国にとっての徴収先となる。中でも徴収しやすい国は、いうまでもなく日本である。

4. 裁判の場を活用
 

ローヤルティ徴収がうまく進まないときには、裁判に持ち込むことにする。米国は周知のように司法優先の国であるから、議会の定めた法律や、行政で定めた法令よりも裁判所の判例が上位の法令となる。行政組織である米国特許庁(商務省配下)が与えたパテントであっても、裁判で負ければ紙くずとなる。
更に、陪審員制がある。陪審員を味方につければ裁判で勝てるわけだから、特に外国企業相手であれば勝算はきわめて大きいものとなるだろう。
更に、訴訟を増やせば、知識産業の騎士、弁護士の仕事が増えることになり、悪名高いライフル協会と並んで議会の強力ロビイスト集団である弁護士協会も納得してくれる。

訴訟で勝てる見込みが高ければ、当然、初めから訴訟に持ち込むことを狙ってローヤルティ交渉をする者も出てくるだろう。相手がとても呑めないような高いローヤルティを請求して、形だけの交渉のあと、「相手に誠意が認められないのでやむを得ず裁判所に、おおそれながらと訴えます」というシナリオである。
想像できるように、この場合のもっとも御しやすいカモは日本の企業ということになる。日本企業相手であれば、裁判に素人であっても、すくなくとも9割の勝算があると算盤をはじくだろう。きわめてリスクが少なく儲けが大きいビジネスである。

しかも、相手のパテントの存在を知りながら侵害を続けたと認定されると、賠償金が3倍に吊り上げられるという仕組みまで備えられているので、笑いが止まらないことになる。

近年のパテントに絡む訴訟合戦の数の多さとそこで飛びかう賠償金の大きさは、「訴訟産業」という分野が存在しているが如くである。どのようにみても、これは正常な経済・産業活動を逸脱している、ほとんど精神異常者の集まりによる祭典のように見える。もっとも、マネー資本主義がもたらす破壊的な効果の一つに、人間の品質低下とその心の荒廃があることを知っていれば、この裁判所を舞台にしての狂想曲に今更驚くこともないといえるだろう。

日本のメーカーをねらった訴訟には様々なものがあるだろうが、中でも、パテント・ホールディング・カンパニーという、パテントを持っているだけで事業活動は何もしない会社からの訴訟は要注意である。この種の会社は、何しろパテントが飯の種であるから、保有しているパテント(Patent Specifications クレームをふくむ)も念入りに仕立てられていると見なして間違いないだろう。

また、イタチの最後っ屁風の、モノづくりに敗退して、店仕舞いの最後にその資産の一つであるパテントを活用して、最後の事業収入を上げるべく、訴訟してくるメーカーもある。
これらは、いずれも競争となる製品を持っていない会社だから、クロス・ライセンスで逃げる手は使えない。侵害している、していないで争うしかない。

5. パテントの数を増やす
 

ローヤルティ収入を増やすためには、民間企業にだけ頼っているわけにはいかず、公立大学や公的研究所のパテント保有を増やす必要があった。そこで考えたのがTLO(Technology Licensing Organization)というやりかたで、学術研究とパテントを結びつけた。これもなかなか優れた思い付きである。

6. 必ず譲渡人へ
 

一部で誤解されているようだが、米国の特許法令や慣習では、企業や団体に所属する発明者は譲渡人(Assignee)に発明を「引き渡す」ことになっている。発明者の立場は強くはないのだ。そのパテントから大きな事業益があがったとしても、一般的には発明者への報奨は大きくないと聞く。それゆえ、青色ダイオード中村裁判の一審結果には米国企業も弁護士も真っ青になったわけだ。もちろん、会社との雇用契約において、巨額の報奨が得られるとの事項を盛り込んであれば話は別だろうが、そのような契約を会社と結ぶことができる人はめったにいないだろう。

また、世界各国に現地法人のある米国企業は、発明を米国本社に集め、そこから出願することにしているのが多いと聞く。外国人社員の知恵を米国本社で金に換えようとしているわけだ。
誤解してはいけない。米国では、「発明者」は保護されていない。保護されているのは、企業経営者であり、彼らを雇っている株主なのだから。銭かせぎに邁進している人種にとって、発明者は単に金の卵を産むべき鵞鳥に過ぎない。

7. 世界での英語の立場の最大活用
 

国内パテントが英語であるのは当然であるが、独占的な国際共通語としての英語の力を最大限利用しようということになれば、必ずや近い将来に、特許明細書(Patent Specification クレームを含む)は、世界中みんな英語で書くことにしようではないかと持ち出してくると予想される。効率化の面からみればもっともなところもあるが、万が一そのようなことになったら、英語を母語としている者と英語が外国語である者の間のハンディキャップから見ても、勝負にならないことになる。日本には、英語を第二公用語としよう、などと主張する頭のおかしい人もいるので、「おっしゃるとおり、これからはパテントはすべてはじめから英語で」などと米国に同調するバカが現れないとは断言できない。

8. 日米パテント相互授与
 

数年前、米国から日本に、特許審査の滞貨の膨大さの解消策として、すなわち事務効率の改善を名目に、日米両国のどちらかでパテントを与えられたものは、無条件で相手国でも授与されることにしようではないか、との申し出があったそうだ。さすがに、何らかの理由で、とりあえずはことわったようだが、米国のねらいははっきりしている。強いソフト、バイオ、システムのパテントで、「日本国内」でも出願の手間なく、ローヤルティが稼げる用にしようとするものである。更に、日本での訴訟が増えれば、米国弁護士の仕事が日本でも増え、まさに一石二鳥である。

日本企業が取得したパテントは米国にとって、なにも怖くはない。日本が得意とするハード製品はほとんどもう米国企業はつくっておらず、どんなパテントが取られても、痛くも痒くもない。米国の製造業(Manufacturing)は1990年代半ばですでに国内総生産の14%しかなく、従業者の数はそれよりも少なくなってしまっていることを見れば、日本メーカーからのパテント出願とその取得の多くが、すでに製品として米国企業の競争相手がいない原っぱで行われているという奇妙な現象が生じている。どと米国に同調するバカが現れないとは断言できない。

もちろんここでは一般論で述べており、個々の分野ではまだ著名なメーカーが残っている場合も多い。しかし、例えばIBMがハード製品メーカーから情報サービス業に転換して、銭の面では大成功を収めたように、まだ奮闘しているメーカーも純粋モノづくりだけでは食えなくなっている場合が多い。自動車金融事業がなければ、ビッグスリーもやばいのではないか。

知識産業の時代だという掛け声と同時に製造業からサービス業への時代という合唱が日本でもあちこちで聞こえた。製造業を捨てた米国が触れ回るのは理にかなっているが、製造業で食っている日本で、これからはサービス業の時代だと騒ぎまわるバカがたくさんいたのにはあきれた覚えがある。

 

日本のソフトウエアの力は米国内ではゼロだし、バイオ化学は、企業の資本力が桁違いだからこれも怖くない。たとえ、米国内で裁判になっても、まず負ける心配はないわけだから、安心して日本国内パテントはイコールUSパテントとすることができる。登録料も保守料も入ってくるのだから、USPTO(米国特許庁)としても文句はない。何が書いてあるのかわからない日本式英語に悩まれている審査官も、審査しなくて済むので大歓迎であろう。

話は少し逸れるかもしれないが、出願が多すぎて審査が間に合わないという、米国の名目上の言い分の大きな根拠となっている日本からの出願の数を減らしてはどうだろうか。数打てば当るのならまだいいのだが、ローヤルティが稼げるかもしれない米国企業同業者はほとんどいなくなっているのだし、裁判になったときに何の役にも立たないパテントをいくらたくさん持っていても仕方がないのでは、と私は思うのだが。

まさか、このような相互授与が現実のものとはならないだろうけれど、日本にはノー天気なお人好しが多いので、又、米国に騙されるのではないかと、少しは心配でもある。

9. 仕様書で銭を稼ぐ
 

パテントローヤルティで稼ぐための基本は、自分では発明に基づくモノはつくらず、授与された紙の仕様書(Patent Specifications)だけを抱えておいて、カモが来るのを待つことにある。モノをつくって自分でも大きく事業展開していると、自分も弱点を持っていることになる。つまり、相手に侵害の警告をすると、相手からもカウンターをくうことになるのが普通であろう。そこで「クロスライセンス」という話となり、両者引き分けということになる。自分で製造業をやっていると、パテントから直接に銭を稼ぐことは極めて難しい。

汗水流して物を作りそれを売って稼いでいる者には、この「発明」だけを保持していて、何もしない人のパテントの有効性は、心情として納得できない。相手も汗水ながして事業展開しているのなら、それに関する権利を保持していることを示されても、競争相手としての同じ土俵上での戦いだから、痛くても納得できるのだが。

つまり米国のパテントは、「発明」だけで与えられるものであり、汗水流すことなく、知恵とそれをうまく言語で表現することさえできれば、うまくあたれば大もうけできることになる。まさにこれこそ「知識産業」である。自分では夜店を出さず、神社仏閣前の縁日の地割権だけを仕切る「テキヤ」式、蟻が落ちてくるの気長に何日でも擂り鉢の底に潜んで待っている「蟻地獄」式、地雷を、ある技術産業の野原に埋設しておいて、何も知らない無邪気な会社が、そこで楽しく大々的に事業を始めて盛り上がったところで、スイッチを入れてドカンと来る「知識産業」である。

米国が声高に主張しているIPR(知的財産権利)とはこういうものであり、決して人類の幸福のためではないこと、製品の市場での公平な競争のためではないことを知っておくべきであろう。

10. 独占禁止法は脇に置いておく
 

かつて、米国の旗印の一つは、自由競争であった。したがって、公正取引、独占禁止は自由なる米国のシンボルとして、内外からそれなりの尊敬を持ってみなされてきた。パテントの権利を声高に主張することと、独占を禁止する考えは基本の論理として相容れない。したがって、米国自慢の独占禁止法は、85年以来、倉庫の中にしまわれることとなった。司法省(DOJ)が例えばマイクロソフトを攻撃しても、それは単なるジェスチュアであり、これほど海外からローヤルティ収益をあげている優等生を罰するはずがない。

11. パテントをIPに含めた
 

インテレクチュアル・プロパティという響きの良い概念の中に、著作権とならんでパテントを入れたのは、天才的なたくらみと思える。文明は模倣をベースにして発展していくものであるから、パテントを強調しすぎると技術文明の発展の阻害になることは容易に考えられるところであり、特に、その技術文明の一つの結実である製品を作り、それを販売して日々の糧を得ている者にとっては、パテントでの過剰防衛合戦は互に何もできない自縛に陥る危険を伴う。

ところが、モノづくりをあきらめてしまえば、失うものは何もないことになるので、パテント(権利)を強調しすぎても損害はない。そして、著作権利と並べて述べ立てれば、誰もパテントの権利主張に文句は言えない雰囲気になる。

他者が汗水ながして生み出してきた成果を、ことわりなしにそのまま「コピー」することは、誰が見ても卑劣なやり方であるが、成果をみてそこからヒントを得て別物を作り出すことは、人類の歴史以来おこなってきたところである。
人の著作を丸ごとコピーすることは卑劣な行為であるが、その著作から学んで新たな何かを作り出すことまで権利の主張のもとに禁止されたら、人類の発展は止まる。
「コピー;つまり丸写し」と「模倣」は概念が異なる。

12. 仕様書を磨く
 

紙(仕様書)だけでローヤルティを稼ぐ、あるいはもっとうまくいけば、訴訟で賠償金を巻き上げるためには、当然ながら、隙のない仕様書に仕立て上げておかなければならない。つまり、金の卵を産むかも知れない紙は念入りに磨きあげておく必要がある。
製品で稼ぐことを本来事業とし、その製品の防衛のために、「パテントも取得しておくか」という態度とはまったく違うことを理解しておくべきだろう。紙だけでローヤルティを稼ごうとするには、まさに口先だけで人が殺せるほどの鍛錬と努力を紙に注いでいることになる。良質の製品作りに命を賭け、パテントは片手間であるメーカーは、この「紙」(仕様書)の出来具合において、とても太刀打ちできないことは明らかであろう。

また、紙にキッチリと書くことは、主張の強い、言語で記述することが大好きの国民にとっては、まさに国民性に合致したやりかたと言えるだろう。

以上見てきたように、米国の「パテントローヤルティ」で稼ぐという戦略の実施は、「楽して儲ける」という全体コンセプトに合致した、統合的な戦略の一環であり、同時に、「得手に帆をあげて」強い土俵をベースにしての、極めて合理性の高い方法であり、そのどぎつさには辟易するが、別の面ではその戦略の巧みさには感心させられる。同時にこの戦略は、モノ作りを放棄したところではじめて可能になったものであり、冒頭にしめしたように「マネー資本主義」に転換したことではじめて可能になった稼ぎ方である。自分で辛気臭い製造業など経営せず、おとなしくまじめな日本人が働く製造業に資本を入れて、労せず利子と配当のあがりを稼ぐか、あるいは、稼いだころを見計らって、パテント侵害で攻めてあがりを掠め取るか、「スマート」に行動しているわけだ。

 
 日本への影響

ここまで述べてきた動きがどのように日本に影響を及ぼしているのか、極めて憂慮すべき事態についてのみ概観する。

巨額の賠償金を巻き上げられる
米国の「訴訟産業」は、常軌を逸した巨額の賠償金が飛び交う狂った世界であり、その中に日本企業も巻き込まれて大きな被害を蒙っている。巻き込まれて、といったが、一番の「カモ」にされて、と述べた方が正しいかも知れない。

日本企業が「カモ」と見なされているのは以下の点からも明らかである:

元々争いを好まない穏やかな国民性
あからさまに主張することを控える文化を持っている
ましてや、英語で口角泡を飛ばしての論戦にはとても互角に戦えない
保持するパテントや自社製品の「Specifications」が平明に、論理的に、詳細に記述されていないので、侵害していないという主張が理解されない。米国では、伝統的な国民性として、明快に説明しない人は、フェアでない(unfair)、つまり何か隠し事をしているのではないかとみなされ、心情的にそれだけで判定者の味方を得ることができなくなり、また相手からの攻撃の的になる惧れがある。更に、論理的に明確に説明できないものは、「頭が鈍い」と判断される結果となる。
外国企業である、しかも心の中では一段と低く見なしているアジアの企業である、ことから陪審員の心情を一般的にはつかみにくい。米国で米国企業と争えば、はなから大きなハンディを背負うことになる。
賠償金を支払える金は持っている。庶民の感情からみても、金持ちから金をとりあげるのは「快感」でもある。*陪審員制で争うと、マイクロソフトも不利になるといわれている。

メーカーとして互いに汗水流して、低い利潤で悪銭苦闘している同士であれば、国と民族と文化の差はあっても、話し合える土壌はある。互いに苦労している「戦友」的な意識も働く。ここでは、言葉が通じる余地がある。

しかし、相手がテキヤであり、蟻地獄(*蟻地獄という奇怪な形をした昆虫が存在する)であり、地雷埋設者であれば、もともとの考え方、生活信条がまるで違うわけだから、ここでの争いには「メーカー同士の心情」に訴えることは端から無理なこととなる。あるいは、相手がメーカーであっても、製品競争に敗れて店仕舞い寸前の状態での訴訟であれば、負けた腹立ちもあるだろうし、失うものはもう無いわけだから、はじめから喧嘩腰で来ているだろう。

侵害を言い立てる相手の多くが、同業者としての、紳士としてのメーカーではないという事態こそが、厄介の元であることを先ず認識しておかなければならない。

製品を薄い利潤で営々として作り、販売してきた経験のあるものには、300億円とか400億円とかの賠償金を支払うことがどれほど「アホラシイ」ことかは実感として分かるだろう。それだけの純利益を上げるにはどれほどたいへんなことかは、身にしみているはずだ。せっかく稼いだそのお金が、一晩で巻き上げられたら、そこに残るのは腹立ちもさることながら、虚しさであろう。
汗水流してモノづくりなんかしていないで、俺も一丁あぶく銭をつかむ方へ鞍替えするか、と思う(まっとうな)人がでてきても不思議ではない。これこそが、「マネー資本主義」がもたらす最も大きなウイルス、人の心を腐らせ崩していく疫病である。

ライセンスでがんじがらめ
訴訟されるのは避けて、ライセンスをもらいローヤルティを払うことにしたとする。そこら中に仕掛けられた地雷にローヤルティを払っていては、ただでさえ薄い利益も出てこなくなる。

良い製品を作るために研究開発して、その成果の一つとしてパテントを取得するという考えや行いとは、まったく異質のところでテキヤや蟻地獄はいる。「引っ掛ける」ために「発明」を行い、そして多くの場合、そのネタになりそうな他者の「発明」を買って棚に入れておき、来るべき時期を待つという「商業」行為は、まっとうなメーカー人間の理解を超えているだろう。自社の製品を守るためのパテント取得と「引っ掛ける」ためのパテント取得は、まったく別の事業マインドからでていることを理解しておくべきだろう。もちろん、彼らも当るかどうか不明のリスクを背負いながらやっているので、勇気なしにできることではない。しかしその勇気は、果敢に製品市場に打って出る勇気とは異質のものである。

憂慮すべきは、このような「引っ掛けパテント」によって、モノづくりが成り立たなくなる事態である。汗水流して製品を売って、へたをすれば、稼ぎはすべてローヤルティに掠め取られては、何をやっているのかわからなくなるだろう。「モノづくりジャパン」が、精神面からも崩れかねない。

 
 日本はどうすればよいか

一つの企画提案

国として長期の働き掛けを
日本はモノづくりで食っていくしかない、という当り前の事実を再度認識して、このモノづくりに障害となる、自分では製品開発、販売はしないで「引っ掛ける」ことのみを目的としたパテントを認めないように、世界のパテントの概念を変えていく努力はぜひとも必要である。「楽して儲けるためのパテント」という「マネー資本主義」に基づくアメリカ式概念と、伝統的な「プロダクション資本主義」を続けている日本人が、まじめに理解しているパテントとは、考え方に大きな違いがあることを認識するのがその第一歩であろう。アメリカ式に同調することは「モノづくりジャパン」の首を自分で締め上げることになることを理解しなければならない。

端的に言えば、日本は「プロパテント」を唱えるべきではない。パテントは、飯の種の製品がコピーされるのを控えさすための必要悪であり、あくまでも製品の防衛のため、というのが日本の取るべき方針であろう。ましてや、ソフトウエアやビジネスメソッドにパテントを与えるなどは、絶対に取るべき方針ではなかった。今から、取り消せるものであれば取り消してもらいたいものだが。

間違っても、「発明」だけで飯が食えるなどと、あるいは自分達もその真似ができるのではないかと考えないことだ。「発明」の紙(Patent Specifications)だけで金を稼ごうとするためには、将来の技術製品分野を先取りしての創造的な、天才的な頭脳が必要であり、それを言語で明確に範囲規定をして主張する才能が必要であり、さらにその価値を先読みする目利きと、巨額の金でそのパテントを買い上げる資金力と決断力、何年もそれを寝かしておける資金力と「勇気」がそこには必要である。「蟻地獄」であるためには、それなりのたいへんな努力と勇気が要るのであり、到底、一般的な日本人、モノづくりで生きている企業のなしえることではない。われわれ日本人は、モノをつくるのは得意中の得意、多分世界でナンバーワンの民族であるが、そのモノを言語でキッチリと記述することは極めて苦手としている。苦手なことは真似しない方が利口である。

企業は何をすべきか
地雷パテントの探知

蟻地獄パテント、地雷パテントがそこら中に埋設されている事態を前にして、何ができるだろうか。
この恐るべき状況を前にして、メーカーとして生き延びるためには、少なくともどこに蟻地獄が潜み、どこに地雷が埋設されているかを知っておかねばならない。地雷パテントは踏んだだけでは爆発しない。その上でのプレイが盛り上がった頃を見計らってスイッチが入れられる方式であるから、その存在を知らないで、その上で楽しくプレイしていると命にかかわる。

その地雷パテントが踏んでも大丈夫なのか、あるいはドカンと来るのかは、その技術分野の技術者にしか判定できないだろう。あるいは少なくとも知財部員が技術者と共同で探し、評価判定する作業が必要であろう。これは、同業者のパテントを調べ、そのマップを作り、自社の技術製品戦略策定の一つとするといった、平和な時代の仕事とは別のところにある。相手の多くは同業者ではなく、事業活動もせずに潜んでいる場合が多いので、正規軍同士の戦い(例えば東芝対IBM)ではなく、ヤクザ、ゲリラ、テロリストとの戦いである、と認識しておかねばならない。

埋まっている地雷があまりにも多ければ、そのフィールドでの事業は断念すべきかも知れない。いずれにせよ、地雷パテントの存在を探知し、その中身をキチンと正確に読み取る能力と作業が、対策の第一歩として、対策の基盤として必要となろう。米国パテントを読解できる技術者の英語能力の向上は、この戦いのためには必須の課題であることは明らかであろう。
敵を知る活動は、インテリジェンスと呼ばれる。このインテリジェンスの重要性を理解していなかったり、不足していると、戦いには負ける。インテリジェンスの重要性を無視して、楽しく得意のモノ作りだけに邁進していると、ある日、闇討ちを食いますよ、ということだ。

自社パテントと製品を明確な仕様書で記述しておくこと
侵害を申し立てられたとき、そこには既に当社がパテントを持っていることを納得してもらえれば、争いに勝てるチャンスがある。あるいは、侵害をしているとされる製品の仕様書によって、侵害していないことを説明できれば、勝てるチャンスがある。

ここにおいて重要なのは、裁判官や陪審員にも理解、納得してもらえるレベルで、分かりやすく明快に仕様書(Patent Specifications, Product Specifications)が書かれているかどうかである。読んでも理解できない仕様書では、味方は得られない。

このことは、訴訟の場合だけでなく、ライセンス交渉の場合においても同じであることは言うをまたない。

パテントをいくら数多く持っていても、いざというときに役に立たなければ、三文の値打ちもない。額に飾って喜ぶぐらいであろう。

既に述べてきたように、米国市場では同業者はほとんどいなくなっているのだから、そのフィールドで数多くのパテントを取っていても役に立つ場合は少ないだろう。出願を精選し、自社の戦略的に重要な製品の根幹に関連するパテントに絞って、お金をかけて念入りに仕立てて出願、取得を図るべきではないか。

どのようにして明確な仕様書を作成するか
先ず認識しておかなければならないのは、米国のパテントは明確に記述されていなければならないという基本事項である。間違っても、日本国内特許と同じ考えの下にあると考えてはならない。周知のように国内特許の明細書は何が書かれているのか読解に苦しむ「変な」日本語で書かれている場合が多い。従って、国内向け明細書の日本語文章から英語文章に翻訳して米国向けに仕立てることは、元の日本語が余程明確に記述されていない限り、有効なものとはならない。

発明の範囲を広く請求できるようにしておくために、曖昧に書いておく、などという慣習があるのであれば、それは日本村の中だけで通用する「怪しげな習慣」であり、米国で通用する話ではない。

曖昧に記述された国内明細書を一見英語風に翻訳して米国に出すことは、米国の審査官を悩ませ、いざというときに役に立たない、出願料と登録料と維持年金を貢ぐだけの、銭をドブに捨てているような「愚行」であろう。

分かりやすく、論理的に明確に日本語文章で記述されていれば、そのように英語文章に翻訳することは可能である。一つの発明、一つの製品をこのように明確に記述することは、日本語でもドイツ語でもフランス語でもすべて可能である。問題は、我々日本人が、明確に記述するという努力を怠っているところにある。あるいは、国内特許慣習が海の向こうでも同じであろうと思い込んでいる「世間知らず」にある。

一朝一夕に改善することはできないだろうが、少なくともここまで述べてきたような改善努力をしない限り、いつまでたっても日本企業は「カモネギ」として、汗水流して製品を開発し販売して稼いだお金を「カツアゲ」され続けることになろう。それに耐えられるお金が財布の中にあり続ければまだ幸いというべきかもしれないが、モノづくりの環境も日々厳しくなっているいま、そのような志村ケン風の「馬鹿殿」でいつまであり続けられるのだろうか。

以上